報道写真家になることをやめました。
(カンボジア、シェムリアップにて)
たしか大学2年の終わりだったと思う。
それは大したキッカケではなくて、
友人がある日、「私はフォトジャーナリストになりたいの」と僕に話してくれたこと。
フォトジャーナリストなんて仕事知らなかった。
これなら、自分にもできるだろうか。
当時カンボジアで、タイダイ染めのブランドを立ち上げたけど、
全然上手くいかなくて、手元に残ったのは初期投資にかかった12万円の借金。
タイダイ染めの時は、やればやるほど違和感を感じていた。
僕はこれに一生を捧げられないと。
だけど、フォトジャーナリストという仕事を知ったときは、
なぜかこれが本当にやりたかったことだと思った。
それからはがむしゃらに、毎日バイトして借金を返して。
その友人が好きだった報道写真家に会いに行って、
取材先を紹介してもらって。
ganasという媒体のインターンを通して、学生記者として活動するようになった。
「僕、卒業したらフリーのフォトジャーナリストになりたいんです。」
編集長をはじめ、周りの友人にはそう話していた。
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「お前みたいなカメラをもったやつ、毎週のように来るよ。写真を撮って、話を聞いて帰るんだ。それで?この国の何が変わった?」
そんなことを取材地で言われることもあった。
ある意味、報道写真家は人の悲しみを撮る仕事。
生きていくためには、まず自分の名前を売らなければいけない。
気がつけば人の悲しみがある場所を探すようになった。
自分が売れるために。
写真で生きていくために。
だけどこの言葉で改めて気付いた。
自分のこの活動で、傷つく人がいると。
何してるんだろう。
何だこれ。
無性に悲しくて、その日は家に帰ってベッドから動けなかった。
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それから月日は流れ、僕は報道写真家になるのをやめた。
先輩の報道写真展や写真集を見る度、
悔しさを感じていた自分。
ある日から、先輩の作品を見れなくなった。
「俺にだってこれくらい撮れる」。
「この人が売れたのは、運がよかったのもあるはずだ。」
そんな醜い嫉妬を大先輩の報道写真家にも向けていた。
だけど、やってみてわかった。
自分にはあんな写真は撮れなかった。
というよりは、その場所にすら辿り着けなかった。
報道写真は、僕にとって怖いことがたくさんだった。
人にカメラを向ける怖さ。
治安の悪い場所に行く怖さ。
死んで親を悲しませるかもしれないという怖さ。
気づけば取材はいつも、
そんな怖さとの闘いだった。
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あれから2年という月日が経った。
僕は今、社会起業家を志している。
その理由は?と聞かれたら、
改めて自分がやるべきことを考えたときに、
それは報道写真家のプレーヤーの一人に加わることではなく、
情報を受けとる人たちを増やすことだと気付いたからと答える。
それは嘘ではないし、
報道という活動を通じて感じたメディアの問題点や、社会への無関心を
どうにか解決したいという気持ちは本当にあった。
でも心のどこかには、きっと
報道の怖さをもう感じたくないという気持ちもあったと思う。
僕は自分を傷つけてまで、誰かを救えるほど
強い人間じゃなかった。
それを僕は認めたくなかった。
だけど、ありのままの自分で生きていきたいから、
そんな過去の自分も受け入れてあげたいと思う。
それに、挑戦したから分かったことがたくさんあり、
結果それが今の原動力になっている。
応援してくれていたみなさん。ごめんなさい。
僕は報道写真家にはなれませんでした。
だけど、社会問題に苦しむ人なんて無くしたい、
みんなが幸せに生きられる社会にしたいという想いは変わらず、
今もそこに向かって走り続けています。
手段はかつての頃とは違い、社会起業家になったけど、
あのころと変わらず、応援してください。
廣瀬